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二年前の文章の謝罪 『童貞。をプロデュース』について

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『童貞。をプロデュース』2017年8月25日よりの上映中止につきまして、

私は8月27日に当該の文章を記載しました。

当時書いた内容は、然るべきタイミングで考えています本blog自体の閉鎖まで、変更加えずに当時の私の浅薄さ・誤りも含め、そのまま残しておきたいと思います。

この文章の「内実は聴いた限りですが、知っている」記載部分について強い批判を、何度か受けました。

当時、書いた背景をまず説明させて頂きます。

私のなかでは「公表できない内実」とは、ここでは映画がどのようにつくられたか、ということとして書きました。

これは私が知る限りでは『童貞。をプロデュース』以前の作品から、松江さん達はお客さんの前では決して映画がどのようにつくられたかを明かさない姿勢を取ってきたと思います。

加賀さんが告発された内実に、彼らはこの姿勢から2017年のあの場で反証できない状況にあると当時判断しました。

反証できないと同時に、彼らにも彼らの「出せていない内実」がある、それを知っている人間もいる、ということを書こうとしました。

一方の内実が反証できない状況下にあって、もう一方の告発する内実が信じ込まれていくことに2017年8月当時に危機感を覚えてしまった、ということがありました。

この点は、2017年当時の私の倫理観で最後まで迷った点でした。「反証できない」(当時判断)状況の延長として「出せない内実がある」、聴いている、と書いた点はぎりぎりの線と当時判断しましたが、二年の時間が経過しても反証の時期は訪れていません。

そしてまずそもそもが、「公表できない」と前置きした上での内実を書き込んだ私のあり方が、

自身の思いに無根拠な説得力を持たせようとする卑しいもの、多くの非を認めるものであったと思います。

 

加賀さんには、その内実の実態が公表されえない、検証されえない以上、

加賀さんとしてももう一度確認も反証できえない―…結果として印象操作と悪しき誹謗中傷になる、とのご批判を受けました。

真っ当なご批判で、そういった印象操作のまま二年留まっていたことを遅ればせながら、謝罪いたします。

申し訳ありませんでした。

 

 

もう少しだけ、書かせて頂けないかと思います。

『童貞。をプロデュース』が公開された2007年は、私が関西を離れて東京に上京してきた年でした。

働きながら自主映画に関わり、自作の制作を模索しながらスタッフとして関わった映画の上映・宣伝に参加していました。

松江さん、直井さん、しまださんには当時より丁寧に助言や宣伝に力を貸して頂き、作風も捉えている客層も全く違えど、

松江さん達のチームに頂いた時間は、私にとって本当に、大事なものでした。

全員ではありませんでしたが、彼らの出演者・スタッフは私が関わっていた映画の公開初日にもお見舞いで鑑賞に参加してくださり、

短い時間ではありましたが、かけがえのない交流を持たせて頂きました。

 

松江さんにお会いしたのは、2006年の夏。関西においてでした。

当時の私は、大阪の映画館での駆け出しのスタッフでした。

初対面から敢えてひとに嫌われかねない本音も伝える松江さんは、しまださんと並んで、言葉がぼんやりした私には当初は胃が重くなる来客でした。20代も半ばを過ぎながら、やりたいことを言葉に出せていない私が話す映画の話や、企画構想に対して、彼らは「やってみな」と優しく微笑むタイプの大人では決してなく、徹底にのっけからダメ出しをして反論を待つタイプの印象で、しかしこちらの出した考えに対してはじっと記憶を長く留めてくれ、一度協力すると決めると、徹底して付き合ってくれる方でした。

言ったことのリスクや記憶は自身も負う、というのが当時私が一年ほどお仕事をし思った印象でした。

しまださんは普段は毒舌家でありながら、こちらが何かをお願いする電話をかけると、お願いしているのはこちらなのに、向こうが慌てたように上手く応えられるかバタバタと動き出して協力してくれる、新宿の機材屋に歩いて連れて行ってくれたり、関西から受けた仕事に必要な機材をわざわざ部屋まで車で運んでくれたりする、部屋に上がり込んでから私の本棚の本に毒舌をつぶやく、どこかユーモラスで、本当に最後まで不思議な方でした。

松江さんは、私が何か大きな仕事に取り掛かると都度都度に、それに接している私の印象を冷静に厳しく伝え、そして足繁くこちらの場に通ってくれる方でした。私の初長編監督作公開の際は、劇場に何度も足を運んでは、打ち上げまで残りその日の感想を伝えてくれました。

そうした熱心さの恩義以上に、私が彼を信頼していたのは、彼は自身のものの観方・批評を厳しく一貫し持っていてその時節時節の状況で、これは褒めたり批判したりした方がいいなどという状況判断は無く、独自の一貫した考え、お客さんとの関係を考えている方でした。それは状況によってはご自身を不利に追い込んだり、上手く持っていけない状況にも持ち込んだと思います。

私は松江さんのコミュニケーションの強さ、私には割り切れない仕事の早さなども違うものとして感じてきましたが、私の中では必ずすぐに返ってくる優しさがあった。根底における無心さ、公平さにはいまでも信頼を置いています。

 

今となって書いてもなんら信憑性も公正性も欠くことになるかもしれませんが、

2006年当時、ガンダーラ映画祭上映準備で初めて観た『童貞。をプロデュース1』について気になった点は無かったわけではありません。

私にとって当時は、むしろ問題となっている当該シーンがどのように撮影されたかということもそうですが、加賀さんのその拒否に対して「僕の仕事を汚いと思っているのか」とある台詞でした。私の硬いアタマではその論理の急な飛躍、また書かれた台詞でないのでならば、現実に接している人間関係間の言葉のやりとりでとしては若気の至り過ぎた「反論の封じ込め」の印象に映ったのです。加賀さんが感じていた違和感はそこではないと当時思い、その点などを当時、松江さんやガンダーラのスタッフに聴きました。松江さんもガンダーラのスタッフも、一スタッフの私の問いに色々討論し、真剣に答えてくれました。

しかし最後まで観た映画は面白かった。私のここでの面白い、とは笑えるということだけではありません。

加賀さんの表情、周囲の人間とのやりとりは非常に魅力的だった。

予想や自分が見聞きしているもので想像できない、やりとりがあった。

2の続編の梅澤さんに引き継がれてからは、それは増した。

2017年時までの私の偽らざる印象です。

 

私が加賀さんと初めてお会いしたのは2007年の春の、新宿でのある特集上映の打ち上げになります。

これがあの方か、と…映画で観るよりずっと若い印象でした。

上手く表現できないのですが、彼には当時、どこか観られることや話しかけられることなど色々なものに慣れ切ったところがなく、

その前にご自分の気持ちやひとへの心遣いを、まずそのままに出される方の印象でした。

印象的だったのは、東京に出てきたばかりで知人も少なく、話もまともに出来ないで宴席の隅にいる私を、加賀さんは最後まで気遣ってくださり、話しかけてくれました。

年齢は少し下なはずなのに、私はこの際、非常に恥ずかしさを感じたことを強く記憶しています。

2007年時、恐らく直井さんが先頭に立たれてからの『童貞。をプロデュース』の宣伝戦略は当時の私の眼には見事で、映画界隈の方々から一歩も二歩も出た広がりをもち、話題性をつくっていきました。

シネマ・ロサに当時観に行った折には、加賀さんは既に大勢のお客様に囲まれていて、私はこのときは挨拶をするも「あのときの…」とまで会話を続ける気概がありませんでした。彼らの熱狂、囲まれている拍手がどこか眩しいものに見えました。正直申し上げれば、もう図々しくスタッフの方々の中心に歩いていく気力が私には無かったのです。

どこか自分にはつかめない、遠いものだと感じていました。

 

松江さん達の『童貞。をプロデュース』チームとお付き合いがあったのはこの夏までです。

私はそれから自作の撮影に忙しくなり、松江さんとはお互いの新作を観に行って感想を交わすお付き合いになりました。

集まる場所場所で、梅澤さんの姿は時折お見掛けしても、加賀さんのお姿をもう観ることがなくなった理由に、疎い私は気づいていませんでした。

それでも2009年頃には、松江さんの人々とのお付き合いにも変化が出ていることは、私にも雰囲気としてわかってきました。

私の印象では、松江さんはひとと笑い合う・喧嘩する・嫌われる・好かれるを非常に濃厚、短い期間で集めすぎてしまう印象があり、同時にファンの方や全国各地の上映者の方も非常によく覚えている印象がありました。優しいと同時に厳しく、本来はとても人見知りで気性も激しい方という印象でした。その当時の松江さんは、何故だか私には少し寂しそうにも思えました。

その日の帰路、あの盛り上がった2007年頃までに、あまりに多くのひとを集めすぎ、付き合い過ぎたのだと思いました。

 

それから。

2010年、2011年、と私は実作と生活も苦しくなり、2012年を最後に、松江さんとも長い間お会いしない―、というより西東京の端に引き込んで長い制作期間に苦しみだし、同時代の映画制作者とはほとんど交流を持てない時間が続きました。

2017年の8月。

ネットで『童貞。をプロデュース』の10年目の上映がされたことを知りました。「ああ、10年経ったのか…」私は自室でその報をみながら、そんなことを思いました。そしてSNSに誰かが流した、当該の舞台挨拶の動画をみました。

最初は10年目のパフォーマンスだと思っていたのですが、そうではないことが、徐々に分かりました。

ネットに次々と拡散の投稿が広がっていくのを目の当たりにしました。

その際に遅ればせながら初めて、私は加賀さんと松江さんが10年前に喧嘩別れされていたことを知ったのです。

一日、二日と続いていく騒動に、夏の暑さとは違う、絶望的な汗を身体からかいていく、苦しい時間でした。

例えではなく、叫びだしたい思いを抱きました。

持永さんを亡くし、しまださんを亡くすもっと前に、加賀さんと別れていたこと―

あれだけ多くの関係者やお客さんがいた光景が昨日のように瞼に浮かぶのに、ネットに飛び交う証言や言葉が、バッシングの嵐ばかりに染まっていくこと。

そうした苦しい時間のなか-これはあくまで私の印象ですが、「変わってないな」と思ったことは、松江さんが「それは言わない、(ここで)言うわけないだろそんなこと!」と発言されたときでした。ああ…このひとは変わっていない。長くしっかりお話していないが、お客さんの前で映画の秘密やスタッフ・共演者とどう揉めたり何を話したかを、明らかにできるひとではない…若い頃から映画の制作/上映を様々な場所で仕掛けてきて、それが未だ譲れない矜持なのではないか、と思いました。あくまで2017年8月25日時点の彼の対峙の仕方に対しての、私の印象です。それから時間が数日、数年経ってからの議論とはまた違う、私の当時の印象です。

 

本当に耐えられなかったのは、あの動画自体のネットへの拡散でした。

私はじつはこの舞台挨拶を知った、一ヵ月前に松江さんに5年ぶりに再会していました。それは共通の知人である、大好きな映画監督の葬儀の場です。その葬儀と喪失は、私にとって本当に耐えがたく、何度もこれが夢であってほしいと願うしかない、夏の時間でした。そこで私は初めて、松江さんの息子さんにお会いしました。正直呆然自失の状態で言葉も上手く出てこない状態で、松江さんと挨拶し、そして初めて観るご子息が非常に大人しく、その場でお父さんを困らせないよう付き添われていた様子をみて、私は「本当に偉い子だな」と思ったことを覚えています。

 

あの子が、成長してからこの動画をみてしまうこと。あるいは、友達に教えられたりすること。そのときに負う傷を思うと、絶望的に暗い気持ちになりました。

 

加賀さんが映画の公開において、ずっとそれをされてきたのだ、というそもそもの批判が私に刺さりました。

10年間のあいだ、加賀さんの最も近しいご隣人が伝える言葉、加賀さんがそれにどう応えていいのか分からない時間の苦しみも、あったかと思います。

この件以来、私はAV業界の問題についてもより気をつけて、読むようにしました。

例え当時合意で撮影されたものであっても、女優の方が現在の人生を考えてこの時期のキャリアのものの配信は、もう取り下げて欲しいとお願いすること。

何より私自身、20代の頃に俳優養成のワークショップの事務をしていたことがあるので、6年後に当時の参加者の女性から「いまはもう旦那さんもいて、家族もご近所とのお付き合いもしっかりしているので、俳優をやっていたことをネットには残しておきたくないんです」という丁寧なご連絡を受けたこともあります。

すべての映画、映像においてそれがすぐに要請において出来るかは分かりませんが…ひとが映ったものに負うものが大きい場合は、それは話していけないのかといま思います。

そうしたご自身の、若い頃の志をどう残すかの交渉を、無下にされることの暗さや絶望のようなもの―加賀さんが長い間追われていたであろう、苦しみへの想像は、想像が追いつかなくても出来たはずなのに、

私が問うていながら、結局自分のなかで浅薄なものとしてしか実践できていない想像力とは、自分が観て想像できた想像力にまず支配されてしまうことです。

しかしこの動画を公開されるに等しいことが、加賀さんと松江さんの間にあったのか。そこは本当に―明らかになってからにせめてしてほしかった、いや、明らかになってからでも、これは許されるのか。何より、もう少し双方の言い分が判断される場所で話し合いがあってほしかった。そうしたことを考えれば考えるほど、パンクしそうになりました。

私はあの当時、ひとつの怒りに負けてしまったと思います。

目の前で行われている「これは、あまりに、あんまりだ」という暗さに負けてしまったと思います。

 

私が見聞きした内実とは、2006年から2007年の一年頃まで、かけがえのない交流を持たせて頂いた『童貞。をプロデュース』の方々からお聴きしたもの、なにより当時の会場の様子、その時期を知っている方々との追憶の話、でしかありません。

2017年から二年、時折うなされたように苦しみだす加賀さんに、こちらの想像力の公正さが足りなかったことに長く直視することもできず、どう言葉をかければいいか分からなかったというのが正直な心情でした。そして松江さんとも、年末年始のご連絡はしても、私の方から連絡を控える時間がつづきました。ただこのことを、思い出さなかった時間はそんなにありません。

 

あれからの時間、いまは公開されていない松江さんのblogを読み返したりしていました。

読み耽り、笑ったりもし、当時を思い出しもし、言い難い時間でした。

そのままに残っている私への言葉。なにを食べたか、今日誰と話したか。そういえば2007年の夏、大阪に3人で公開で行かれていたな、私の元上司から連絡があったなとか。当時、誰それが松江さんの宴席に合流されて、こんなくだらない話で盛り上がっているのを読んだな、とか。私自身も忘れていた記憶が符合されました。

私はたぶん、この時期が好きだった、楽しかった。

非常に無力感、自分にはなにも出来ていないという思いはあったけれど、

この人たちとの交流が好きだった。楽しかったのだ。そうしたことを認めたとき、どういっていいか分からない、涙が止まりませんでした。

ただそれは自身の勝手に思い描く幻想のままであってほしいという暴力的なエゴと、そうではなく、その観てきた充実があったからこそもっと詳細に話してほしい、ということの領域は、気をつけていなければ容易に溶解してしまうものにも思えました。

そして当時私が記憶している、松江さんと加賀さんの表情の記憶はあっても、当然ながらその胸中までを知っていることではありません。自分はいったい何と付き合い、何を知っていたというのか…そんな心情に負けそうになるときもありました。

 

長く観ることが出来なかった舞台挨拶の動画を今回やっとみても、改めて気づく点があります。

例えば加賀さんが「絶交していたんです…」とお話されてから…「(松江さん)あ、怒っています?怒っているパターンの顔してますけど…」と問いかけるまでの時間には、不思議な振幅のようなものを感じました。「許しにきた」という言葉の前に、私はなぜかここにそれとは外れた余剰を覚えるのです。これは…もちろん相当な覚悟で準備し臨んできたのだろうけれど、前日まで書いた怒りのシナリオを読み上げようとする人間の態度には見えない、…あのとき加賀さんが発した「許しにきた」は、モノローグ(台詞)だったのか、ダイアローグ(問いかけ)だったのか。例えばダイアローグとして用意していたものだとしたら、どの瞬間でモノローグに切り替えなければならない反応だったのか。それとも最後までダイアローグだったのか。これは、私が2006年時に『童貞。をプロデュース』鑑賞時に感じた、件の「僕の仕事を汚いと思っているのか?」の台詞にもつながる謎になりました。

 

対して松江さんが、加賀さんの怒りを受けての「あっち行こう」、三度ほどだったと思います。その表情―これは裏で話そう、と第一の意味の印象がまず強くなっていますが、ここに、私は一抹の寂しさを見てしまいます。2009年に松江さんにお会いし、帰り際に思った印象です。そりゃ私が知っている松江さんは、あっち(楽屋)に行ったらまずはメチャ怒るのは想像できるけど、「今日は、話したいと思っていた」「話そうよ」という声かけにも見えたのです。

悲しい、というのは私の勝手な思い込みかもしれないけれど、このときあまりに悲しいのは、お二人はこのとき何年ぶりに会われたのでしょうか、それでもお互い恐らく、話そうと思っていたと思うのですが、このときは話す場が双方どうしても譲れなかった。

加賀さんはここで話したかった。松江さんはここでは話せなかった。

加賀さんにしてみればいつの決死の訴えも、彼の中で公正に聴き入れてもらえなかった、というトラウマに近い記憶があったのかと想像します。これには私は、勝手ながらシンパシーを覚えます。映画に限らず、主義主張がぶつかるスタッフがいて、論理や公平性上、いくらこちらに正当性があると思っても、どうしても取られる(政治・言語上の)力の立ち位置で勝てないスタッフがいる。大組織でやっている仕事以上に、小さなコミュニティで制作していく自主制作映画などは、恐らくそういったことが起こりやすい。それならば戦法を変えていくしかない…対立するスタッフともうやらないと決めるか、こちらが受け入れられない主張を強行されそうな場を延期するか、こちら側の仲間を増やすか…そしてそれでも当然ながら、結果的に要求戦で勝てるようになったからといっても、それが作品の強度や充実を約束するわけではない。私のような者にとっても、この10年はそういった時間の連続でした。

2007年のあの折の彼には、時間がもう無かった。そして自身が負うものが大きすぎた。私の言葉では浅薄かも知れませんが、そう想像します。

 

 

長々と私のただの印象しか書けず申し訳ありませんが、最後に一つだけ私事を追記させてください。

私には2009年より10年近く、かつての仲間を相手取り、裁判等の時間を過ごしてきた一人の友人がいます。相手を交えての話し合いに同席した時間も、各地から友人が集っての地裁での公判に同席した時間もあります。

交渉や話し合いが進まないことに彼が苛立つ言葉に、付き合う時間もあった。高潔で大変尊敬している友人から、憎悪の言葉を聴く時間は正直つらいものだった。

いろいろな方法を考えた時間もあった。私も怒りに負けて、相手を恫喝し醜態をさらした時間もありました。いまとなってはごめんなさい、本当に笑えない話ですし不謹慎な話なのかもしれませんが、相手が出る場に殴り込むと、私に言葉で告げてきたときもあり、私はその時間が決まったら頼むから教えてくれ、一緒にいるから、と返した記憶があります。彼はでもそれを選ばなかった。いまになって状況と関係性がまた変わり、いまも話し合いを続けています。

私はその10年経ってしまった時間を、彼とすべての一歩一歩を歩めたわけでは全くありませんし、彼が助けや言葉を求めてくるときに言葉を返す、こちらからは折をみて心が別にいくような連絡をする、あるいは単純に話したいから話す、そうした付き合い方をしてきました。

私はその10年が、彼から若さを奪ったことが本当に悔しかった。悲しかった。才能が溢れる方で、できればその才能を仕事に向けることに時間を使って欲しい-と告げたときもありましたが、彼にはその問題に取り組むことをやめることはできませんでした。

同時にやってほしい、という願いもありましたが、若さも時間も徐々に無くなっていく彼にそこまで強いるのは酷な話でした。

ですが…それでもいまは不思議と、それを相手への憎しみにだけはいまは還元できない思いがあります。ひとを憎み続けていると、知らずに憎み続けている自身をも無意識に憎んでいる、という言葉を最近になって知りました。これは私個人の近年の人間関係でも気づかされる言葉でした。

 

通り一遍のお話の帰着になってしまっていたら申し訳ありません、それでも私は、松江さんと加賀さんにお話ししてほしい。

二人がお話できる場で。すぐの決着などをそこでしてほしい、ということではありません。

お二人のタイミングで、話をしてほしい。

 


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